最近、「ひとり飯」を食する女性が増えているそうだ。誰にも干渉されずに、ひとりでファーストフード店やどんぶりもの屋に行き、本を読みながら、携帯メールしながらひとり食事をとる……そんなことらしい。これは、夜だけでなく、ランチタイムも同様である。スターバックスのようなカフェで、サンドイッチやラップサンド、或いはべーグルサンド、最近ではパン食だけでなく、おにぎりカフェなるものも登場し、とにかく若き女性たちは片手に主食を持ちながら、かぶりつきつつ、片手でメールをしながら……というお食事タイムを過ごすらしい。
一昔前、そう数年前、私は会社員時代、残業が多く、よく会社の横の牛丼屋へでかけたが、あの頃女性ひとりで牛丼屋に入り、「玉子もつけてください」というのが、とても恥ずかしく、早く胃のなかに流し込んで、会社へ戻ろうと思っていた頃を思い出す。あと、お昼にはよく小諸そばにも出かけたがいつも逃げるように、知っている人に会わないように隠れるようにして店に行っていたなあ。あの頃は時間がなく、「かけこみめし」であった。今の若者の食事事情とはそれともはちょっと違い、それはそれで「食事」ではなかったと反省する。(今も変わらないが)
最近の新聞では、こんな記事も見かけた。明日の昼食に孤独になるのがいやで、同僚などを誘って、前日からレストランなどの予約をするOLが増えているという。孤独なランチタイムを避けたい、ひとりでいるのが見られるのが恥ずかしいそうだ。だからそれを回避するための安心予約らしい。日本は異常事態である。私は会社員時代、女の子どおしが同じ席でごはんを食べなければならない習慣にどうも慣れなかったという思い出はあるが、お仕事中の食事時間ごときで孤独を感じている暇などなかった。早く食べて早く仕事を終えて、終電までには帰りたいと思っていたからかもしれない。その事情は別としても、今の人たちはとにかく寂しいという。ひとつには、電話会社の人には申し訳ないが、携帯電話や、電子メールの普及が人々の直接的なコミュニケーションを、ある意味「貧しくした」と思う。顔の見えない相手に対し、いつでもコミュニケートできる分、顔が見える相手の存在が見えなくなり、どうコミュニケートしてよいかわからなくなっているのではないか? だから、どんな会話をすれば楽しいかもわからないのかもしれない。おいしいレストランの話題? ファッションのこと? 異性のこと? 昔、女性はおしゃべりであるといわれた。その分、女性が食事の輪にいると、紅一点といわれ、その場が華やいだともいわれた。しかし、現在はどうであろうか? 孤独だから予約をすると上に書いたが、ではそれで実際に、おいしく楽しい時間を過ごせるのであろうか? 人と食事をするのに予約をするのは、何か目的があってのこと。お祝い、久しぶりに会えた喜び、大切なおもてなし、仕事上のおつきあい……。これがそうでなく孤独回避だとすると、これまたおかしな実態であると首をかしげてしまう。果たして、楽しい会話が弾むだろうか? 予約する価値のあるランチタイムになるのであろうか?
一方、男性も上司に連れられ退社後、酒を飲みに行くということが減ったようだ。家庭や自分の時間を大切にする人が圧倒的となり、いわゆる酒飲みが減ったといわれる。家や仲間、恋人たちとの食事に、少しだけ好きなお酒を傾ける。というのが良いらしい。居酒屋でくだを巻くおじさんたちはずいぶんと減ってきたのではないか。そういう意味では、毎日まっすぐ帰らないで赤提灯へ通っていたおじさんたちにも違った意味での孤独が到来しているかもしれない。
高度成長時代以来、日本人は勤勉に働き、夜のおつきあいも盛んであった。上司に連れられ、居酒屋へ。無礼講とか、酒の席の話とかで、昼間とは違った親密な関係づくりが行われ、それがいい人間関係を作るにも一役買った。得意先との接待、上司とのおつきあい……ちょっとお酒が飲めるビジネスマンは昼も働き、夜も働いた。このくそまじめ、勤勉スタイルが今日の日本の基盤を形成したということもできるであろう。お酒を通して上司の心をゲットしたビジネスマンで昇進していった人々も少なくないであろう。
先日、海外へ出張した際、日本から現地へ駐在にやってきて間もないビジネスマンと初対面で食事の席の運びとなった。その方とは初対面だったので、どんな方なのかもよくわからなかったのであるが、お酒が進むにつれ、周りの人間への罵倒、悪態がはじまった。その矛先は自分にも当然向けられ、初対面でもあるにも関わらず好き放題の暴言を浴びせられた。目は座り、口からは泡を飛ばし……決して美しくないシーンであり、思い出すのもつらいがその不快な場面でも、部下や仕事仲間はその酔っ払いおじさんを無視することができない。飲めば飲むほど絡む、飲まない人を傷つける。周囲は、ただうまくこの時間が過ぎ去り、無事故(自分に飛び火しないで)で早く帰ることができることを願うだけである。そんな食事会も今だにあるのだ。きっとかつての日本でもよくあった光景であっただろう。
そして翌日には、その酔っ払いおじさんは、けろりとすべてを忘れ、普段どおりに仕事をする。毎日がこの繰り返しなのかもしれない。
私のまわりには、多くのおじさまがいる。ほとんどの方を私は心より尊敬している。また、ピアノを演奏する場にはお酒がある。だから、世の男性たちがどのようにお酒に関わっているかも垣間見ることができる。お酒をあくまでもコミュニケーションツールとして、ほどほどに楽しみ、相手も周りも楽しくする方は本当に好感がもてる。反対に、酒の席を特別な時間とし、自分勝手となり、周りに迷惑をかける、或いは傷つけるような飲み方をされる人はどうも尊敬できない。
食べることも、飲むこともすべて豊かな時間でありたい。おいしく食べて、飲んで、楽しい時間を過ごし、次に向かって充電をしたい。そうであるが、現代にはこの飲食をとりまくちょっと悲しい現実があるように思う。個食化の時代、またバランス感覚欠如の時代……。
食を孤独なものとしたのは、コンビニの功罪か? 忙しい女性たちを助けるために生まれた惣菜は、ファーストフードはある意味、食を「餌的」存在にしてしまったか? また家庭という単位がなくなり、家族のコミュニケーションの形が変わりりつつある今、みんなバラバラの飲み食いをして生きている……ということがいえるかもしれない。恐ろしいこと。変えなくてはならないこと。
食事もお酒も人々を本来、幸せにするためのツールなのである。何を食べたかも大事であるが、どのように食べたかも大切である。つらいビジネスの合間に、競争社会で生きるストレスの癒しに、おいしい時間が必要なのである。今、日本のすべての大人たちは、自らの「食」のあり方を本当の意味で問うてみる必要がある。孤独でなく、不快でなく、素敵な人生のために。前号にも書いたが、飲食は生きる上で、とっても大切なことだから……。「出張から帰ったら、あいつと一緒にあれを食べたいな」という、こんな素朴なことが大切に思える。
食から日本を本当にHAPPYにしなければ・・・・・。